福岡旅をより愉しむための情報「歴史あれこれ①」

20.福岡の概要と歴史,有名観光スポットとお祭り

 福岡に最初に住んだ民族・・主に日本列島の古代民族であり、縄文時代から弥生時代にかけてこの地域に定住したとされているようです。縄文時代には狩猟採集民族が、弥生時代には稲作農耕民族がこの地域に住んでいたとされています。その後、畿内や九州からの移住者、または外国からの渡来人が交流し、地域の文化や経済に影響を与えました。

 福岡は古代から交通の要所であり、畿内や中国地方との交流が盛んで、異なる文化や民族が交錯しました。福岡の歴史は、多くの出来事や文化の交流によって形成されています。

福岡の歴史は、紀元前前3世紀ごろから始まります。
古代の日本で「博多」と呼ばれた港が存在し、交易や文化の交流が行われていました。

奈良時代(8世紀ごろ)には、大宰府と呼ばれる政庁が置かれ、九州地方の統治の中心地となりました。
これは、当時の日本で国際交流が盛んであったことを反映しています。
平安時代には、平氏の乱などの歴史的な出来事が福岡地域で発生しました。
鎌倉時代には、元寇(蒙古襲来)が発生し、福岡地域もその影響を受けました。博多湾は蒙古襲来の舞台となりました。

 折角ですので、福岡県での「元寇(蒙古襲来)」との戦いについて少しご説明します
元寇(げんこう)は、13世紀末に蒙古帝国(モンゴル帝国)から日本への侵攻を試みた軍事的事件で、日本史上の重要な出来事の一つです。
元寇は2回の侵攻から成り立っており、福岡にも上陸しました。

元寇の背景・・元寇は、13世紀末の1274年と1281年に蒙古帝国のクビライ・カアン(後の元の第5代皇帝)が日本への侵攻を試みた事件です。
蒙古帝国は当時、中国や中央アジアなどを征服し、日本への侵攻はその拡大政策の一環として計画されました。
日本は当時、鎌倉幕府の支配下にあり、鎌倉幕府は国内の統一を図り準備を行っていましたが、侵略の規模と激しさには備えきれていませんでした。

一度目の元寇(1274年)・・モンゴル軍は約40,000人からなり、福岡県博多湾に上陸しました。しかし、風雨が襲来し、モンゴル船団に大きな損害を与え、日本側も奮戦しモンゴル軍は撤退しました。

二度目の元寇(1281年)・・1281年には、クビライ・カアンが再度、より大規模な軍勢を率いて日本への侵攻を試みました。この侵攻は「弘安の役」としても知られています。
モンゴル軍は再び福岡県博多湾に上陸し、多くの地域で戦闘が繰り広げられました。しかし、日本側は防御を固めまた風雨に助けられ、モンゴル軍は撤退を余儀なくされました。

*福岡県内には「元寇防塁」の場所がいくつか残っています。
元寇防塁は、福岡市内に位置し、博多湾を守るために築かれました。具体的な構造や配置は詳細については資料により異なるかもしれませんが、城壁や塀、砲台、櫓(やぐら)、堀、門などから構成され、要所要所に兵士が配置され、攻撃に備えました。この防塁は、元軍の侵略を阻止し、日本本土を守る役割を果たしました。

元寇防塁は、日本の歴史において重要な文化財として保護され、観光名所としても訪れる人々に知られています。福岡市内には、元寇防塁に関連する博物館や展示物も存在し、その歴史や役割について学ぶことができます。
なお、具体的な詳細や訪れる際の情報は、福岡県の観光情報や博物館などの情報を参考にすることをお勧めします。

 日本の奮闘と風神・雷神伝説・・元寇の際、日本側は神風(かみかぜ)と呼ばれる強風がモンゴル船団を破壊的に襲ったと信じられており、この出来事は神風伝説として広まりました。
また、日本の神話や伝説に登場する風神(ふうじん)と雷神(らいじん)が、日本を守るために戦ったという伝説も広まりました。
元寇は、日本が外敵からの侵略を撃退した歴史的な事件です。
風雨や自然現象が戦局に大きな影響を与えたことから、神風伝説は特に有名で、日本の文化や歴史においても広く語り継がれています。